アニメについて、思った事を書く 140130

折角アニメ見てるんで、思った事を書いてみる。

終わりのセラフ

背景がいい。

自然に帰りつつある町並みの退廃と吸血鬼の住む世界の闇、どちらも詩情がでていい。

風景は、寧ろ吸血鬼の美しさを増し、人類は世界の片隅で生きていくのがふさわしいと思わせる。

大きな鉄のパイプや、広い空間表現、デカイ宗教的な建物とかは、恐らく上田文人タルコフスキー)関係のTVゲームの影響ですかね。筆のタッチが残った感じは、特に”rain”っぽかった。

他にも全く別で”last of us”の感じもあるんだけれど、これは似たコンセプトだからたまたまか。

スタッフの中にゲーム好きでもいるのだろうか。

まあ、どちらにしてもゲームとアニメの組み合わせ方には、まだまだ色々な可能性があるなあと感じました。

冴えない現実の育て方

人間程度の認識力では、他人を正確に理解するのは不可能、それでも分かり合おうと努力する。

主人公倫也(ともや)は、ギャルゲーという”過度に”女(男)を規定するゲームのファン。勢い余って、倫也はギャルゲーの自主制作に着手。そのヒロインに”普通の女の子”恵(めぐみ)を起用する事によって生じる齟齬や変化が極めて現実的な結論を導き出す。オタクの”癖に”無駄に許容量のデカイ主人公が少しの希望。

新房っぽいなーと思ったら、一緒に仕事した事がある監督らしい。新房と比べて、作画削減のハッタリにケレン味を多様せず、フェチズムに転化するなどの工夫をしているので自然に見れる。それでも、というかだからこそ「変な色での人物アップ」みたいなカットは中途半端で感情移入を阻害している様に思えた。あと、変な形の生垣は・・・面倒くさかったのだろう。

ギャルゲーの制作というテーマをハーレムアニメでやるという、メタ的な入れ子構造。

一部のギャルゲやアニメは人物の内面を単純化し規定する事によってキャラクターが作られている。適度な刺激でオタクの純情を弄ぶ事はあっても想定内を超える事はないし、寧ろ超えれば猛烈なバッシングを受ける事さえある。そして外見面も、単純化、記号化、デフォルメによって一定の型へと押し込まれた絵で表現される。(これがアニメの格好良い部分でもあるのだが)

倫也は現実の女の子に、まさにこれを求める。ギャルゲーのヒロインとして、このアニメのヒロインとして、現実世界のヒロインとして。最初は反発していただが、倫也の人柄の良さと、自己肯定感の低さから、その要求に少しづつ歩み寄り、この作品はハーレムアニメとして完成する。これって男女関係に関わらず現実世界で見る光景とそう変わらない。人は分かり合えないが、互いに歩み寄る努力をしなければ絶望。倫也に歩み寄る日は来るのであろうか、他の女友達に対する彼の態度を見れば、少しは希望を持てるのかもしれない。しかし、彼女達は既に、ギャルゲのキャラクターを、地で 行く 存在だと い う 事を 除けば だが・・。

 

ハーレムものは、いかにずらして外してリアルっぽく見せつつ、男の規定する”女”を描けるかに懸かっている。この作品は僕の規定する”女”にはokです。

怠惰の罪

来るところまで来たんだなと思う。少年バトル物、一つの到達点。

このアニメを見てると、なんだか物凄く駄目な気がする。人として、終わってしまうような。

強敵の前フリ、溜め(じらし)の演出を過度にせず、過去のアニメ、マンガ的記憶からの引用や「絶対に開かない扉」といった言葉による説明で、強さを演出する。さらに、強さに理由を付けない、七つの大罪だからという免罪符やキャラデザ、怒り、悲しみといった感情の爆発で押し通す。

これによって、バトル物での大きな問題点の一つ、強さの際限なきインフレをひとまず解決している様に見える。この手法は、結構盲点だった。

実の所、今書いた事は多かれ少なかれ、バトル物には必ず入ってくる要素ではあるのだけれど、

演出の目指す所に迷いがない、手が取れ、体が切断され、体に穴が空くが、死ぬ事はなく、元通りに戻ったと思えば、簡単に死んでしまう、限界を超えたはずのキャラが再び立ち上がり、家族が死に、仲間が死ぬ、死人は蘇り、新しい必殺技が連発され、キャラの姿形が変わりまくる、敵が寝返り、行方不明の仲間が見つかって、また再び離反する。

一つ一つのドラマはただ”感動”として消費され、絶える事のない刺激が、チョー気持ちいい。このままアニメ界のマイケル・ベイを目指して欲しいものだ。

 

今後ビッグデーターが益々活用される様になれば、この手法はもっと強まっていくだろう。その日を楽しみに、今日もリモコンのボタンを無意識に押す。

白箱 才能が中心に据えられる業界 

業界物、職業物ってのは、単純に好奇心が満たされて面白い。

 

日本のアニメ業界の内部を自らが描いた作品で、それなりの信憑性はあるだろう。かなり厳しい現状が見える。

いい年してちゃんと働いた事がないので、よく分からないのだが、起きている問題の多くが責任の所在がはっきりしていない所にある様にみえる。才能が中心に据えられる業界の為だろう。

才能を持った人がスランプに落ちたり、問題を起こしたりしたとしても、彼らに責任を帰属させる事はできない。何故なら、彼らの才能が業界の半分を担保しているからだ。つまり、才能持った人には人格破綻者でもない限りある程度の裁量と、わがままが許されていると言う事。

しかし、ここで問題がある。才能と人間性というのは、イコールではない。むしろ天才は破天荒だったり、こだわりが強かったり、する人が多いのではないだろうか。しかもその破天荒さ、こだわりが経験として表現にフィードバックされるから始末に終えない。努力型もそうで、自分が頑張ってきたという自負がある故に、簡単には自分の考えを曲げないかもしれない。アニメーターに求められる資質に、コミュニケーション能力があげられたり、万年人手不足であったりする理由は、こういった事が一つあるのかも。

結果、しわ寄せがいく制作進行やライトノベルの担当編集者。彼らの中に適当な人物がいるのは、戦略的にそういった人格を演じているのか、元からそういう性格の人間なのか、たぶん両方で、そうでなければ簡単に潰れてしまうからなんだろう。

こういった状態で働いている人達は、仕事(アニメ)以外の経験や勉強、人間関係もできない、つまり職人になるしかない。職人が悪いとはいわないけれど、伝えたい物がある”作家”を、育てる事が出来なければ、将来はジリ貧。それは内部の人が一番分かっているのだろうけれど。

結局外部から、アニメに興味の無い人、愛が無い故に破壊と革新を起こせる人が連れて来られる。そして、愛が強い者は叩きのめされて、天才とコネを持つ者だけが生き残る。

改善の余地としては、資金を増やすというのがあるけれど、根本的にアニメの作り方を変えるくらいじゃないと無理なんだろうなあ。

 

 

 

バハムート

ソーシャルゲーム発のアニメ。

カメラ、人間性、演技、美術などなど、それぞれをどういうふうに演出にするかによって、作品のカラーが決まる。

実写よりで、最近のファンタジーアニメでは、あんまり見かけないバランス。

オタク文化が市民権を得た影響もあってか、アニメ的なケレン味やキャラ付け(性格のデフォルメ等)を強く前面に出す作品が多いから、地味に見えた人もいるかも。実写もアニメ的な表現を取り入れたりもしてるしね。

昔は、アニメという制約を乗り越えようとして出来た表現だったんだろうけど、ギャグとか萌え豚系とかが、それを逆手にメタ的な表現として使って、最近では逃げ道に使われちゃってる部分もある。どちらも良い所、悪い所があって作者の好みとも言えるのだけど。

ストーリーが王道、キャラクター重視ではなく、カメラの動きが普通。神々の戦いのスケール感もちゃんと出ている。動きもいいし、絵も綺麗。佳作。最終回でアヒルがディズニーみたいだったり、キスの時体をピーンと伸ばす所だったりが、外国人の好みそうなセンスだと思ったんだけれど何だったんだろうか。

新しいと思ったのは、西洋の民間信仰やらギリシャ神話、キリスト教とか色んなもんをごちゃ混ぜにするのはよくあるが、それを中南米の風景でってのはあんまり見た事がなかった。音楽もウエスタン風。

騎士とかが出てくるのに、この世界の階級とかがよく分からないという所に日本のアニメの強みが現れている。後はそこ以外の細かいディティール等世界観をつめて、もっと没入度を高めれば最強になるんじゃないだろうか。

 

天体のメソッド ネタバレ

いくら成長したからって、あそこまで気づかないのは無理がある。死んだ母親が意味ありげで、特に意味がない。円盤利権で飯を喰ってる友達がいて、それに反対する友達がいる。おまけに円盤自身の女の子=ノエル。皆互いの考えの違いでばらばらになる。というか、乃々香の悪役っぷりが素晴らしい。自分が街を去る事を伝えずに、円盤を誘致し、放置し、友達共々皆忘れる。円盤を呼ぶ理由も自分のエゴから発している所がなかなかよい。

ノエルが関係性の修復を阻む、阻んでおいて皆が仲良くする事を望む。ノエルいなくなっちゃうよ、いいのかな?マッチポンプなのかな?

円盤のデメリットが弱い、したがって、ノエルが街を去らなきゃいけない理由が弱い。したがって葛藤が弱い。”あの花”でいえば、過去の呪縛からの開放。死んだ人がこの世にい続けてはいけないという、多くの人が共有できる感覚。まあ、メリットも長年の友人関係多数の修復に対し、つい最近出来たばかりのノエル一人との関係性の持続という微妙なものなんだけどね。(ノエルとの関係構築が、円盤から離れられないという設定の為にきちんと描かれないから。)

街に住む一般人にはいずれも関係なく迷惑でしかないが。

12話、円盤が無ければ絆が出来なかった事が描かれるけど、案外ノエルがいないほうが上手く関係性を築けていけそうなのは、皮肉か。

なんか作画については、よく分からんがエンディングの動きがいい、日常芝居って言うのか、歩きっていうのか。

 

 

 

ゆゆゆゆゆゆゆ  ネタバレ

影響受けていようが、似ていようが、真似であろうが全く問題はない。それを超えるオリジナリティが何処かにあればだが。

 

作者の主張がダダ漏れしている。ダダ漏れでもいいのだが、演出やストリーへの組み込み方が荒すぎて、現実に引き戻し、感情移入を妨げるだけになっているような。

音楽もそうで、あまりに説明的過ぎる。黒澤明程にする必要はないし、アニメには分かり易も重要だと思う、だけどもう少し抑制が欲しかった。声を失った樹の姉、風が号泣するシーンは笑ってしまう。扇情的な曲で、私でも何処で泣けばいいか分かりました。歌を歌う事が好きなが、ピンポイントで声を失うってどれだけの確立なのだろうか。大赦の悪ノリとしか考えられん。もしかして、大赦側の論理でしか語られないバーテックスも・・・・。

一つ前で書いた「大図書館の羊飼い」が、近くの仲間から人々の幸せに指向が移っていくのに対し、こちらは世界(ではなく、たぶん国)から近くの仲間の為に戦うという話に移っていく。ある意味リアル。樹海における現実界への影響もTVとかに少し映る程度でミニマム感を増す。

東郷の、キャラのブレ。最初は恐怖で中々変身できない。最後は、楽しい思い出が消えたり、友人が苦しい思いをしたりするくらいなら世界を壊すという選択をする。これも恐怖心が強い人の精神状態として理解できる。ハッキリしないと耐えられない、二項対立しか許せないといった人。極論に走りがち。ところが、勇者システムについて調べる場面が乖離する。これだけ恐怖心の強い人が、確認の為に痛みの強そうな飛び降り、ハラキリwなんかを選択するのだろうか。段階的に試していく所を描くか、恐る恐るにするべき、勇ましく思い切りがよすぎて違和感。

しかも自害wって、普通の女子高生が使う言葉かなあ、軍歌歌ったり。父親が軍関係者とか、小さい頃から病弱で虐められてたとか、って描写があればそれなりに納得出来ない事もないのだが。それでもできないけど。ギャグだとしても、分かりずらい。

主人公格で車椅子ってのはいい。そういったマイノリティを出す試みはどんどんやって欲しい。それに対して「甘ブリ」は・・・AV出演者が出てきた時、さすが京アニ、先進的!と思ったのだがアニマルビデオって残念だ。

 導入部の上手さはピカ一。平凡な学校の生活風景を重ねていって、ああ人を助ける部活動とかよくあるヤツね。女子中学生達の日常生活を描いてくパターンかあ。と、思わせた所からの時間停止、すぐに異世界に飛ばない所がいい。日常の風景の中でのちょっとした違和感の方が、全く違う世界に飛ばされるよりも怖さを感じさせられる。事情が分からない主人公達の不安な様子と風の事情分かってるけど並々ならぬ事が起こったという感じ。異世界に飛んでからも直ぐに合流せず不安感が継続される。主人公と共に視聴者を宙吊りにして徐々に分からせていく所がワクワクさせられた。

 

そして、最後に謎が残る。バーテックスはいるのにお役目が終わったのは何故なのか?供物として取られた体の機能が戻って来るのは何故なのか?精霊が増える設定はいるのか?樹役声優のギャラはどうなっているのか?まったく、この世界のエントロピーはわけがわからないよ。