アニメについて、思った事を書く 140130

折角アニメ見てるんで、思った事を書いてみる。

Fate stay nights[Unlimited Blade Works] , Fate-zero-  (ネタバレ)

原作について、

設定、

キャラクターの作り方の一つとして、実在する人物や、伝説上の人物に想像を肉付けするというやり方があるが、それを大胆に設定に取り込んでいる。

fate”では、人類の長い歴史のなかで語り継がれてきた物語、英雄を使う。

英雄の物語というのは、多くの人が知っている。その名前の引用は、キャラに厚みや深みを付加することが容易になり、新たな解釈や想像を少し加えるだけで大きな広がりをうむ。さらには、キャラクターの過去を描く必要を省略できるというメリットもあるだろう。

例えば、アーサー王を引用したキャラクターは、視聴者それぞれが考えるアーサー王を投影し、感情移入することになる。

新たに加えた解釈(想像)は実は女だったというもの。

これは、エロゲにおける女キャラという、現実的な問題であっただろうが、そこで新たにうまれる想像の余地がテーマにも絡み結果的に良い効果をうんでいる。

また構造上、大量に存在する英雄を新たに追加すれば新しい展開やサイドストーリーを創作することができ、商業的にもすぐれていると言えるだろう。

こういった設定の面白さだけでなく、しっかりとしたストーリーや世界観、推理要素、キャラクター自身の魅力などがあったことが、寿命の長いコンテンツに成った所以だと思う。

そういった観点からみれば、”fate -zero-”の前日譚は、”fate”の世界観に自ら厚みを加えていく行為だとも言える。長く同じコンテンツをやり続ける事の強みであるが、若年層等の新たな取り込みがポイントになってくるだろう。

 

ストーリー、英雄譚、

 英雄の定義としてよく上げられるのが、無私の精神。

士郎の将来の姿である英雄アーチャーは自分の人生は報われなかったと言う。高邁な精神で世の為、人の為に生きたとして、感謝されるわけではなく、寧ろ能力があるが故に利用され、迫害され、自分の願いは決してかなう事はないと知る。ならば、自分の為だけに生きるべきではないのか。困っている人がいても、死にそうになっている人がいても、助けないのが得だ。それこそが幸せへの道なのではないのか、とアーチャーは強く問う。しかし、士郎は、報われる事がなくとも、無駄であるとしても多くの人を救う道を選ぶ、という話です。

 ”zero”との繋がり、

”zero”で衛宮切嗣が多くの人々を救うという理想を断念し、近しい人の為に生きるという希望を見つけたのに対し、”fate”では圧倒的な恐怖の記憶と切嗣の愛情を動機に、士郎は多くの人々を救うという理想をまた引き継いでしまう。

切嗣に育てられた士郎は、切嗣とまた違った形で、多くの人を救う為に手段を厭わない歪な存在として描かれる。(切嗣は他人の命、士郎は自分の命を犠牲にする)そして、その理想は、ギルガメッシュに借り物として表現されるが、それが重要。子供に何を引き継いでいくのか。何が子供に動機を引き起こすのか。

強すぎる動機は現実の前に断念をうむ。ならば、子供には理想は存在しないと教えるべきなのか?親であればそう伝えるかもしれない。自分の為に生きろと。しかし切嗣にはそれを教えるすべはない、なぜならそれを植えつけたのは育ての親である切嗣の過剰な生き方と愛情に他ならないから。

士郎は自ら死ぬ様な経験することで限界を知る、限界を知った上でそれでもなお、理想を持ち続けると決心して終わる。

つまり、”zero”は切嗣が理想を追求するロボットから感情を持った人間になる話に対して、

fate”は士郎が理想を追求するロボットから人間に戻らずに英雄になってしまう話ということ。

これは、”zero”を書いた虚淵の作品群に繰り返し出てくる構造で非常に面白いと思いました。(ちなみに、最近始まった虚淵原作”ケイオスドラゴン”の一話のタイトルが「一殺多生」)

 

 

 という所で、今回のアニメがどうだったかと言うと残念。

 

まず、"fate"原作ゲームの要点、

多くの登場人物が、特殊すぎる人生や心、理想故に誰にも理解できず、また理解される事を望んでいない、孤高であるという事。その孤独な者達が、孤高であるという一点のみにおいて、殺し合いを通して分かり合えたのかもしれない一瞬の輝き。

次に、「遠坂凛ルート」の要点、

凛の恋ともつかぬ淡い感情。アーチャーの正体という謎解き要素。そして、最も重要なのが、自分自身(士郎とアーチャー)との理想を懸けての闘い。

 

一番オ-ソドックスにいけば、これを如何に演出するかだと思うのですが。

 

孤独、 

全体的にタメが足りない、ホラー要素が薄まって、不安感や恐怖感を感じずらい。煽らずにすぐ見せてしまう。登場人物が死ぬシーンでも、すぐ死んでしまうので中々感情移入しずらい。

街、住宅街をもっと有効に使うべき、人を感じさせる物や学校といった場所は演出次第で、疎外感、孤独を表現しやすい。そういった点でも無味乾燥なバイトで働くシーンはあったほうがよい。

物語上でも重要な公園でのトラウマの回想シーンがない。何に囚われているか、人とコミュニケーション取りずらい理由の説明にもなる。ビジュアル的にも公園のベンチに一人佇む姿はそれだけで何かを語る。

こういったシーンがあってこそ、士郎の異常さをよく表現できる。

 

凛の恋、

凛の恋に、視聴者を感情移入させるには、長く共に過ごしたという事や危機を乗り越えたという事以外にも楽しいひととき、喜怒哀楽を共に経験したことを感じさせることが有効であろう、つまり日常シーンが必要。半話分でも尺を取って欲しいところ。また、殺伐とした世界観との対比になり、戦いの悲劇性や残酷性が増す。物語の緩急を作る為にもあった方がよい。尺がなければ、昔から士郎が気になっていたというエピソードを語りではなく、映像で見せた方がよい。

 

自分自身との戦い、

セイバーが物語りに絡んでこない、セイバーの役目は士郎の師匠であり、アーチャーの師匠であること。

セイバーは、士郎とアーチャーの戦いに介入しないが、見守っている事に説得力がない。乖離してしまっているのは、次の場面が描かれない為。

士郎に剣の稽古をつけるシーンは、必須。セイバーから剣を教わり、それがアーチャーへと繋がっていく、日頃から剣を練習している趣の発言もあったと思うので、敵とある程度戦える事の説明にもなる。それと共に、日常やバトルシーンに絡めて、士郎の思考、歪みをセイバーが垣間見るシーンが必要。

そして、アーチャーと呼応するセイバーの理想と挫折の経験、それを士郎が知ること。

 

アクション、

 戦闘シーンが迫力に欠けるのは、CGを見せたいが故に逆に制約されてしまってるからかも。

美麗なCGとスローモーション 回り込み、しかもカメラの動きにノイズがなく直線的。浮遊感があって、ケレン味としてはいいけれど、感情的な表現にはなりずらく、軽い印象。特に新鮮味を感じさせることもない。

絵のサイズを大きく変えてカットを細かく繋ぐ普通のアクションシーンに、CGはここぞと言う所でレイアウトありきで入れ込む方がいいのではないか。どちらにしても、バトルシーンでいちいちカメラが動き回るスローモーションの多用はどうにも勢いが削がれる。

 順番が上下するが、映像のパターンが少ない、似たようなサイズで似たような構図が頻出するので退屈。

固有結界の剣が一杯刺さった背景は、動きを出し易いと思うのだけれど、どうなのだろうか。

 

他には、 ギルガメッシュの小者感はどうにかして欲しい。「そんな」とか「馬鹿な」的発言を減らして表情で見せれば、それだけでも少しは印象が変わるはず。

セイバーの「エクス・カリバーーーー」の掛け声はどう考えてもださい。咆哮とかの方がまだましだと思う。

聖杯から出てきた、醜い肉塊は予算が許すならば、人間のパーツをもっと散りばめて不快感を。

 せっかく”fate-zero-”をアニメ化した後のリメイクなのだから、その影響をもっと描いて欲しい。

遠坂凛ルートにおいて、重要でない部分は、短くまたはカットを。例えば、イリヤ、キャスター、小次郎はもっと大胆に削る余地があるはず。

 

エピローグの日常描写、風景がよかった、エフェクトの使い方がバトルより向いてるかも。 

 

かなり荒いが、このへんで。