アニメについて、思った事を書く 140130

折角アニメ見てるんで、思った事を書いてみる。

幻想と灰のグリムガル(ネタバレ)

逃避はアニメに重要な要素だと思う。

 

水彩画、印象派っぽい背景には光が溢れる。

モノローグの多用と時折現れる淡い画風が酔いをもたらす。

感情や死、生活がゆっくりと丁寧に描かれる。

一人の死をこんなに長くやるのもあまり見たことがない。

感情面にフォーカスした作り。

無音の使い方が印象的。

 濃密な人間関係や時間、街の匂いと人々の生活、生きる為に殺す事、風景や焚き火、虫や鳥の声、雪の無音などが生を体感させる。

 

親しい人間の死がカオスを表す。

生き物を殺して金を稼ぎ、酒場で酒を飲む。

社会がある程度の柔軟性、闇を残しているということ。

時代がそれを許容する。

 

国が存在しない時代、極めて限定的な人間関係が残り、明確なシステムがない時代。

自由であるが人間が容易に死ぬ時代。

何処か牧歌的なのは、身内以外の人間(他人)を殺すことがモンスターで隠されているから。

それは、差別や排斥も許容される世界であるということ。

 

 

現代に、カオスは許容されない。

死は巧妙に隠され、万人に優しく、正しい事だけが許される。

テクノロジーは、個人の力を制御できぬ程に暴走させ、限定的な人間関係を死滅させた。

自由は永久に失われ、理想(幻想)も潰える。

誰もが幼き頃に抱いた狂気は、歪められて社会に破壊を産み出した。

 

 

ラブライブ! (映画) けいおん!(映画) ネタバレ

色々駄目なんだけど、

一番の敗因は、グループの成長ではなく穂乃果一人の成長物語として描いたことでしょう。

廃校を阻止し、バラバラの個人でしかないグループの動機は何か、それはグループ自身でしょ。それを視聴者も、望んでいたのではないかなと思います。

つまり、穂乃果の葛藤を”オカルト女シンガー”や、”秋葉原大量フラッシュモブ”に頼るのではなく、”ミューズ”若しくは”仲良し3人組”の中に持ち込めば、少しはましになったのではないかなあと思いました。

 

まあ、 映画の出来が良かったところで、アニメの重要な要素が”逃避”だと考える僕に「ラブライブ!」は健康的過ぎる。

ラブライブ!」は成長物語故に外部へと指向していく傾向があった。

自分の将来や、他者との交流、現実的な目標と動機。 

 

けいおん!」(映画)はアニメ版の逃避的傾向、箱庭的な要素取り出してより純化する構造になっていた。

外国も新しい事を発見するというよりは、誰も知る人がいない5人だけの空間をより濃密にする為に利用していた様に思う。確か。

動機は勿論”放課後ティータイム”であり、後輩(ファン)に対する思いという、極めて内向きの内容。

まさに今だけしかない、この時間、この空間、5人だけにフォーカスした事によって、終わらないと語ることが終わりを意識させた。

 

キャラクターが語る言葉と映像から伝わるものの違い、 だけなら他の映像コンテンツでもやれる、しかし、逃避的な内容へ”引き込む力”これが加わって、まさにアニメでやる意味がある。素晴らしいです。

 最も世界に光が溢れる黄昏時、いつもの笑顔で来年の計画を話す”4人”のラストは切ない・・。

 

ただの感想

ノラガミARAGOTO」

何で毘沙門天が女なのかと思ったが、これ観て氷解した。「ブァルキリ-プロファイル」がやりたかった訳ね。テ-マ的には真反対。まあ、日本の神と人間は仲良さそうだしね。

 

 

「ワンパンマン」

才能と承認の話は、不条理ギャグと相性がいい。というか才能をテ-マにした結果、不条理ギャグになったと言ったほうがいいか。

バトル”もの”としての切り口では「七つの大罪」と同じアプロ-チ、メタなギャグとしての意味合いが加わっている。

圧倒的な強さで、EDの様な日常を絶対に失わない点は、確かにヒ-ロ-なのかも。ここから人間的感情を引くと自然とか、神になっちゃう訳ですが。

色々言っても、作画を見るアニメなんだろうと思いました。

 

 

「G A TE」一期、二期

テロを口実に相手国に攻め込み、圧倒的な武力で蹂躙、現地の女を正義のもとに囲いながら、文化的に遅れた民族に民主主義を教えるというアメリカフォロワーな内容。何故か敵のやられ方は悲惨。

政治や外交の描き方を見るに、リアルなシュミレ-ションであることがこの作品の面白さである様。しかし、政治の手続きや根回し、会議の雰囲気など細かいディティールがあっさり描かれるだけで、社会、風習、政治、民族、文化等の大きなものが描かれない。圧倒的な戦力差に対するゲリラとテロ、ドラゴンにおける家畜の可能性、未知の病原菌、国・国民・政治家の立場における違いとそれによる外交等々。

捕虜になった日本国民を助けるエピソードで、世論に巻き起こった自己責任論でもやればよかったのに。現実における重い要素をいかにライトに扱えるかがエンターテイメントには重要です。いかに引き込んで、感情を動かすか。

他の要素としては、萌えがあるけど中途半端、映像的にも新しさはない。敵を完全な悪として描かず、日本側に力がありすぎる為、敵側への同情を禁じえない、ネトウヨ接待アニメとしても失格の烙印を(私から)押されてしまった。スタッフの政治的スタンスを複数取り込んでしまったのかもしれない。この内容をエピソード形式をやるならもっと考えないと、日本軍が彼の地にて、何をしているのかがよく分からない。

 主人公、怖い。

 

 

「少女たちは荒野をめざす」

「冴えない彼女の作り方」と比べると、音楽、キャラデザ、主人公の性格等、全体的に抑え気味でリアル寄りというシビアな方向性でありながら、感情移入を阻むシナリオと演出によって”ギャルゲ-”との見事な異化効果生み出し、何ともいえない気持ち悪さを感じさせてくれる。ジャパニメ-ションだ、何だと言って、オタクが社会的に認められてきたことを甘受した僕らに「あ・・・・、やっぱり駄目だ。」を強烈に叩きつけてくれる良作。

現実からの逃避を目的とする”ギャルゲー”を作る為には、現実を知らなければいけないという高度すぎる演出論に唸った。

言動に齟齬をきたすヒロインと引きずられてゲーム制作に参加した主人公。仲間との交流の中で何かを掴み動機を獲得して行くのかと思いきや、各々が勝手に自解し盛り上がって行く様は、人間の深い孤独と摩訶不思議さそして人生、宇宙、世界、闇を光を風を感じさせてくれる。

僕達は自分の内面と会話しているのかもしれない・・・・・。

がっこうぐらし(ネタバレ)

細かな違和感や、不安感を積み重ねて、最後に爆発させる演出や、

社会不適合者の楽園⇒日常のかけがえのなさへの回帰といった結末は、今までのゾンビ映画と比べても特筆するものでもない。

 

アニメ版の脚本プロデュ-スがニトロプラス(エロゲから始まった会社)というのは、面白い。

 

エロゲにも色々種類があるのだが、エロゲは元々テキスト系ホラ-ゲ-ムから派生したもので、かつての日本エロ映画の様に作家の実験場と化している部分があった。また、ジャンルとしてアングラ。メジャ-なコンテンツでは、受け入れられにくい内容の作品が多く存在した。

そこに、萌え系の隆盛、ポップな世界観が流入し、可愛い絵柄なのにやたら内容がハ-ド、異様なバランスな作品が登場する。絵の変化にともなって内容も多少中和されていくが、世界感の破壊や違和感をうみだした。

そして、その違和感やアンバランスさは、意識的か無意識的か、極度に記号化された絵、演出、一部の訓練された人間などによって、寧ろ感情移入を強化し、異様な体験に拍車をかける為に利用されていく。

つまり客の目を回す、眩ませる。カオスで客を振り回して、訳が分からなくなっている所に大量の情報を流し込む。

 ”がっこうぐらし”は、日常系のパ-トと人がゾンビ化するというシリアスパ-トの振幅の大きさや、絵柄のギャップがその効果を産んでいて、ニトロプラスは、そこにエロゲとの共通点を見出したのかもしれないなあ、と思いました。

 

ちなみに、”まどかマギカ”なんかもそういった一連の流れの中にでてきたものとも言えるのかも、ニトロプラス虚淵だし。映像がドラッグ的、という要素が付け加わるけれど。

 

もっと振れ幅の大きい、異常な体験をさせてくれるアニメが出てくる事を期待したいなあ。

 

オ-バ- ロ-ド

”ソ-ドア-トオンライン”は主人公が学生、ヒ-ロ-、ゲ-ムに現実世界と同じ程度の価値をおく。

対して、”オ-バ-ロ-ド”は、主人公が社会人、悪役、ゲ-ムに耽溺しながらも何処か冷めた視点維持し続ける。

辛いな。

うしおととら

情念によって髪が伸びるという表現は何処発祥なんだろうか、歌舞伎あたりかな?怖い話にもよくあるし、髪伸び人形とか。

 ”ドラゴンボ-ル”なんかは、宮崎駿と同じで動物の威嚇、恐怖や怒りを感じた時の鳥肌、毛の逆立ちから来ていることは何となく分かる。

それなら日本以外の国でも案外通じるのかも、情念や怨念は分からんけれど。

 

うしおの髪伸び、格好良い。

目が光って豹変し、顔が見えない、この世の物ではない。腹の底から出てくる怒りの声、いいね。

 

音楽はベタなんだろうけど、一定のリズムの金属音に、高い音が重なっていく緊迫感、盛り上がる。他にも、ウチ木や尺八、三味線が醸し出す、怪談的な雰囲気は改めて凄いと思った。これも外国人にどう聞こえるのか聞いてみたい。

オ-プニング曲、大槻ケンヂ、合ってる。

 

槍がいい。

シンプルなデザインと歴史を感じさせる風格、キズ、重さ、振動音、打撃音、全てにおける実在感が、槍の念に説得力を持たせる。とらを解き放った直後の槍の振動表現は格好良すぎ。ピントがスッと合う感じ。

 

キャラクタ-は時代を感じるけれど、がむしゃらな爽快感がある。

Fate stay nights[Unlimited Blade Works] , Fate-zero-  (ネタバレ)

原作について、

設定、

キャラクターの作り方の一つとして、実在する人物や、伝説上の人物に想像を肉付けするというやり方があるが、それを大胆に設定に取り込んでいる。

fate”では、人類の長い歴史のなかで語り継がれてきた物語、英雄を使う。

英雄の物語というのは、多くの人が知っている。その名前の引用は、キャラに厚みや深みを付加することが容易になり、新たな解釈や想像を少し加えるだけで大きな広がりをうむ。さらには、キャラクターの過去を描く必要を省略できるというメリットもあるだろう。

例えば、アーサー王を引用したキャラクターは、視聴者それぞれが考えるアーサー王を投影し、感情移入することになる。

新たに加えた解釈(想像)は実は女だったというもの。

これは、エロゲにおける女キャラという、現実的な問題であっただろうが、そこで新たにうまれる想像の余地がテーマにも絡み結果的に良い効果をうんでいる。

また構造上、大量に存在する英雄を新たに追加すれば新しい展開やサイドストーリーを創作することができ、商業的にもすぐれていると言えるだろう。

こういった設定の面白さだけでなく、しっかりとしたストーリーや世界観、推理要素、キャラクター自身の魅力などがあったことが、寿命の長いコンテンツに成った所以だと思う。

そういった観点からみれば、”fate -zero-”の前日譚は、”fate”の世界観に自ら厚みを加えていく行為だとも言える。長く同じコンテンツをやり続ける事の強みであるが、若年層等の新たな取り込みがポイントになってくるだろう。

 

ストーリー、英雄譚、

 英雄の定義としてよく上げられるのが、無私の精神。

士郎の将来の姿である英雄アーチャーは自分の人生は報われなかったと言う。高邁な精神で世の為、人の為に生きたとして、感謝されるわけではなく、寧ろ能力があるが故に利用され、迫害され、自分の願いは決してかなう事はないと知る。ならば、自分の為だけに生きるべきではないのか。困っている人がいても、死にそうになっている人がいても、助けないのが得だ。それこそが幸せへの道なのではないのか、とアーチャーは強く問う。しかし、士郎は、報われる事がなくとも、無駄であるとしても多くの人を救う道を選ぶ、という話です。

 ”zero”との繋がり、

”zero”で衛宮切嗣が多くの人々を救うという理想を断念し、近しい人の為に生きるという希望を見つけたのに対し、”fate”では圧倒的な恐怖の記憶と切嗣の愛情を動機に、士郎は多くの人々を救うという理想をまた引き継いでしまう。

切嗣に育てられた士郎は、切嗣とまた違った形で、多くの人を救う為に手段を厭わない歪な存在として描かれる。(切嗣は他人の命、士郎は自分の命を犠牲にする)そして、その理想は、ギルガメッシュに借り物として表現されるが、それが重要。子供に何を引き継いでいくのか。何が子供に動機を引き起こすのか。

強すぎる動機は現実の前に断念をうむ。ならば、子供には理想は存在しないと教えるべきなのか?親であればそう伝えるかもしれない。自分の為に生きろと。しかし切嗣にはそれを教えるすべはない、なぜならそれを植えつけたのは育ての親である切嗣の過剰な生き方と愛情に他ならないから。

士郎は自ら死ぬ様な経験することで限界を知る、限界を知った上でそれでもなお、理想を持ち続けると決心して終わる。

つまり、”zero”は切嗣が理想を追求するロボットから感情を持った人間になる話に対して、

fate”は士郎が理想を追求するロボットから人間に戻らずに英雄になってしまう話ということ。

これは、”zero”を書いた虚淵の作品群に繰り返し出てくる構造で非常に面白いと思いました。(ちなみに、最近始まった虚淵原作”ケイオスドラゴン”の一話のタイトルが「一殺多生」)

 

 

 という所で、今回のアニメがどうだったかと言うと残念。

 

まず、"fate"原作ゲームの要点、

多くの登場人物が、特殊すぎる人生や心、理想故に誰にも理解できず、また理解される事を望んでいない、孤高であるという事。その孤独な者達が、孤高であるという一点のみにおいて、殺し合いを通して分かり合えたのかもしれない一瞬の輝き。

次に、「遠坂凛ルート」の要点、

凛の恋ともつかぬ淡い感情。アーチャーの正体という謎解き要素。そして、最も重要なのが、自分自身(士郎とアーチャー)との理想を懸けての闘い。

 

一番オ-ソドックスにいけば、これを如何に演出するかだと思うのですが。

 

孤独、 

全体的にタメが足りない、ホラー要素が薄まって、不安感や恐怖感を感じずらい。煽らずにすぐ見せてしまう。登場人物が死ぬシーンでも、すぐ死んでしまうので中々感情移入しずらい。

街、住宅街をもっと有効に使うべき、人を感じさせる物や学校といった場所は演出次第で、疎外感、孤独を表現しやすい。そういった点でも無味乾燥なバイトで働くシーンはあったほうがよい。

物語上でも重要な公園でのトラウマの回想シーンがない。何に囚われているか、人とコミュニケーション取りずらい理由の説明にもなる。ビジュアル的にも公園のベンチに一人佇む姿はそれだけで何かを語る。

こういったシーンがあってこそ、士郎の異常さをよく表現できる。

 

凛の恋、

凛の恋に、視聴者を感情移入させるには、長く共に過ごしたという事や危機を乗り越えたという事以外にも楽しいひととき、喜怒哀楽を共に経験したことを感じさせることが有効であろう、つまり日常シーンが必要。半話分でも尺を取って欲しいところ。また、殺伐とした世界観との対比になり、戦いの悲劇性や残酷性が増す。物語の緩急を作る為にもあった方がよい。尺がなければ、昔から士郎が気になっていたというエピソードを語りではなく、映像で見せた方がよい。

 

自分自身との戦い、

セイバーが物語りに絡んでこない、セイバーの役目は士郎の師匠であり、アーチャーの師匠であること。

セイバーは、士郎とアーチャーの戦いに介入しないが、見守っている事に説得力がない。乖離してしまっているのは、次の場面が描かれない為。

士郎に剣の稽古をつけるシーンは、必須。セイバーから剣を教わり、それがアーチャーへと繋がっていく、日頃から剣を練習している趣の発言もあったと思うので、敵とある程度戦える事の説明にもなる。それと共に、日常やバトルシーンに絡めて、士郎の思考、歪みをセイバーが垣間見るシーンが必要。

そして、アーチャーと呼応するセイバーの理想と挫折の経験、それを士郎が知ること。

 

アクション、

 戦闘シーンが迫力に欠けるのは、CGを見せたいが故に逆に制約されてしまってるからかも。

美麗なCGとスローモーション 回り込み、しかもカメラの動きにノイズがなく直線的。浮遊感があって、ケレン味としてはいいけれど、感情的な表現にはなりずらく、軽い印象。特に新鮮味を感じさせることもない。

絵のサイズを大きく変えてカットを細かく繋ぐ普通のアクションシーンに、CGはここぞと言う所でレイアウトありきで入れ込む方がいいのではないか。どちらにしても、バトルシーンでいちいちカメラが動き回るスローモーションの多用はどうにも勢いが削がれる。

 順番が上下するが、映像のパターンが少ない、似たようなサイズで似たような構図が頻出するので退屈。

固有結界の剣が一杯刺さった背景は、動きを出し易いと思うのだけれど、どうなのだろうか。

 

他には、 ギルガメッシュの小者感はどうにかして欲しい。「そんな」とか「馬鹿な」的発言を減らして表情で見せれば、それだけでも少しは印象が変わるはず。

セイバーの「エクス・カリバーーーー」の掛け声はどう考えてもださい。咆哮とかの方がまだましだと思う。

聖杯から出てきた、醜い肉塊は予算が許すならば、人間のパーツをもっと散りばめて不快感を。

 せっかく”fate-zero-”をアニメ化した後のリメイクなのだから、その影響をもっと描いて欲しい。

遠坂凛ルートにおいて、重要でない部分は、短くまたはカットを。例えば、イリヤ、キャスター、小次郎はもっと大胆に削る余地があるはず。

 

エピローグの日常描写、風景がよかった、エフェクトの使い方がバトルより向いてるかも。 

 

かなり荒いが、このへんで。